ポスモダ哲学の超絶至高脱構築

デリダはまず、彼一流の方法によって「法」の根拠をつぎのように脱構築してみせる。
一般的には、「正義」は「法」によってその根拠を与えられるとされる。
しかし、「正義にかなっている」という事態に、すでに「規則のパラドクス」を
見いだすことができる。「正義=法」は「規則」(ルール)に根拠をもつが、
規則は繰り返し見てきたようにその最終的根拠を確定できない。
規則は規則自体のうちに根拠をもつことはできず、厳密には自らの根拠をその”外部”に、
つまり「暴力」にもつというほかはない。
「法」の起源は国家であり、「国家」の起源はそれを可能としたはじめの暴力だとすると、
「法」は「正義」の絶対的な根拠とはならないことになる。
(『言語的思考へ 脱構築と現象学』 竹田青嗣)
法に限らず、ある価値観(を含んだルール)の正しさの根拠を問うていけば、
必ず論理では正しさを根拠づけできない地点に到達する。
考えてみれば至極当然のことであり、それでも我々は自分の感性に従い、
あるいは他者との妥協の取り決めとしてその価値観に従うのである。
この場合のデリダは「『法律』は最終的に『暴力』という異質の価値観(=外部)に
その根拠を負っている。だから法律に正当性の根拠はないのだ」というわけだが、
一方で「正義は無限の根拠を持つから破壊不能」と言う。
竹田氏が指摘するとおり、これは単に同じ論証の解釈を変えただけである。
至極当然な指摘をすれば、いくら無限という修辞で繕っても「正義にも正当性の根拠はないのだ」
という結論は明らかであり、また同じ論理で
「暴力からさらに遡及すれば暴力を悪だとする根拠もないのだ」ということになる。

デリダに限らず、ポストモダン哲学は恣意的な「内部/外部」の境界設定によって
自分に都合の悪い価値観を相対化し、自分に都合のいい価値観を絶対化する。
ドゥルーズは精神分析で言う「超自我」なるものが社会のいたるところで道徳や規律として
人間を束縛しているから、そこから逸脱し無意識の欲望を解放することで真に「自由」になれる
というわけだが、この場合超自我という「外部」が道徳や規律を生み出しているから、
道徳や規律に正当性はないんだという論理である。
そして勿論、「無意識の欲望」には外部がなく無限の根拠を持つ善いものとされる。
フーコーの場合は「福祉政策」の外部が「微視的権力」となる。

さてこのような既成の価値観の相対化で何がどうなったか。
フランスは知らないが日本ではこうなった。
 たとえば、歴史教科書問題について考えると、分かりやすいかなと思うんです。
歴史教科書の問題は、はじめ右派の側から、左派の言ういわゆる「自虐史観」が、
非常に恣意的な前提に依拠しているということを告発するという形で登場しました。
しかしそこで言われるような「自由」や「人権」が恣意的な理念だというなら、
右派が依拠する「(国民)国家」だって、同じ時期に恣意的に立ち上げられた理念であるわけです。
 そうした終わりの見えない梯子の外しあい、泥仕合の果てに結局明らかになったのは、
社会を支えている近代の価値というものは全て恣意的に過ぎないということでした。
(――鈴木謙介インタビュー其の三)

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