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ポスモダ的「外部」の理系的「外部」

正義が他者から「やって来たもの」であると語るデリダも、無意識の欲望を
語るドゥルーズも、微視的な権力を語るフーコーも、ある種の方法論に分類される。
それは、ニーチェの言う系譜学であり、いま「ありありと現れ出る意識(=クオリア)」
の背後にそれが成立した原因(=外部)を設定する方法論のことだ。
ニーチェの道徳批判の特徴は、それが系譜学と結びついている点にある。
われわれが持っている道徳感情は、それが自己確信しているところに反して、
われわれがそのような道徳感情を持つがゆえに成立したのではない。
そこには成立した意識からは隠された真の原因がある。
それが発見されねばならないのだ。系譜学は、単に論理的に対象を批判する
のではなく、批判さるべきその誤謬や欠陥が生じる原因と生成のプロセスを
明らかにするのである。
(略)…すでに指摘したように、この種の背後にまわる批判は、たんなる論理的・
理性的な批判よりもある意味では深い批判ではあるが、同時に危険性を
秘めたものである。まず第一に、そのことによって批判の論理的根拠の方が
曖昧になる。これはすべての心理主義と歴史主義の共通の難点である。
なぜそのような誤謬を持つにいたったかを探索することは、どこまでいっても、
それが『誤謬であること』の論拠を与えはしない。
(永井均『これがニーチェだ』[p91])
系譜学の何が致命的か。まず第一に、彼らが設定する「恣意的な外部」の背後を
さらに追求していけば、必ずあらゆる価値判断が消失する地点に到達してしまうことだ。
なぜ正義は「よい」のか?曰くそれが脱構築できないから。ではなぜ脱構築できなければ
「よい」のか。答えられない。
なぜ福祉政策は「悪い」のか。曰くそれが刑務所の規律訓練を起源としているから。
ではなぜ規律洗脳は悪いのか?悪いから悪い。つまり、答えられない。
本当は内部を支える外部などないのだ。

第二に、そもそもなぜ価値判断が消失する地点があるのか、という問いに
関わってくるのだが、「ありありと現れ出る意識(=クオリア)」をその背後から
「論理により、歴史により、精神分析により」、要するに「非意識」により
説明しようとすることは、「客観」によって「主観」を説明することであり、
その方法論は自然科学という「外部」によってさらにその背後を取られてしまう。
キルゾーンに踏み込んでいるのである。還元主義を使うものは、
さらなる還元主義によって還元される。
そこには進化心理学や神経心理学という強力な「外部」が控えている。
かくしてポストモダン哲学は、中途半端な存在として蒸発してしまった。

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