マルクスは何を間違ったのか

人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、
彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の
一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は
社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、
その上に一つの法律的および政治的上部構造が立ち、そしてこの土台に一定の
社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的、
政治的および精神的生活過程一般を制約する。(マルクス『経済学批判』)

「生産諸力」とは道具、機械、エネルギー源といった、要するに経済活動の
ためのテクノロジーであり、「生産諸関係」はそのテクノロジーを使う人間の
職種、または職種の間の関係を指している。
そしてマルクスによれば、産業革命を皮切りとする「近代」は本質的に革命的
である。なぜならテクノロジーは連続的に変化し、件の土台論により、労働者
の職種、または職種の間の関係もまた連続的に変化させられるからである。
それ以前の時代は「本質的に保守的」である。
(参考:テレル・カーヴァー『マルクス辞典』)
すなわち、マルクスは今で言うワーキングプアのような人たちが職場で経済的に
虐められ、その怒りが政府に向かい、必然的に暴力革命が起こると言っていたのだ。
現実の歴史としては、資本主義が最も発達していた国々では革命は起こらなかったし、
発達していなかった国々では下部構造も何も関係なく、むしろマルクスの本を読んだ
一握りの武装知識人[これは上部構造だ]が武装組織を作り「予言を自己成就」
させたというのが一般的な理解だろう。

いや今主流の「やさしいマルクス主義」では、曰く「マルクス自身の哲学と
通俗マルクス主義は違う」そうで、「マルスクは経済決定論ではない」とか
「マルクスはアメリカやイギリスなどでは平和的な革命になるかもと言っていた」
とか「マルクスは財産の私有を禁止していない」とか「マルクスは言論の自由を
認めていた」とか、今の北欧あたりの福祉国家とマルクスの言う理想の
共産主義ユートピアでは何が違うんだ、というような非常に焦点がボヤけた
様子になっている。ある思想の尖った角を落すこうした修正は
政治的にはなにがしかの意味があるのかもしれないが、分析ツールとしては
何の役にも立たなくなってしまうのである。

ただ私の解釈により分析ツールとしての機能を残したままマルクス主義に
修正を施すならば、統治機構の政策[上部構造]が大多数の労働者[下部構造]に
敵対しているときだけ、大多数の労働者の怒りは武装知識人[上部構造]により
組織され統治機構に向かい、革命が起こる。
すなわち、労働者の怒りが投票として平和的に汲み上げられる議会制では、
暴力革命など起こりようがないのである。
逆に危ないのは議会制が形骸化している中国や北朝鮮などの共産主義国家である
(共産主義と社会主義の違いは別項で述べる)。
どちらにせよマルクスは統治機構という上部構造の役割を過小評価していた、
これが彼の歴史哲学が失敗した大きな原因であることは事実だろう。

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