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ポストモダンとはこうだったのか

冷戦真っ只中の1960-70年代、フーコーやデリダといったフランスの学者が
「法律の根源的暴力性」だとか「不可視の権力」だとかを言い出したのだが、
これは時代が「共産主義か資本主義か」という「歴史の終わり」の
最終トーナメントにさしかかっていて、もはや国家や社会を語る学者の
なすべきことは大枠この二つのどちらかに「同意するか、否定するか」しかなく、
後はその下で「小さな改善」をどうすべきかしか語ることがなかったからである。

幸い、哲学を自家中毒に至らしめた認識論や、もはや自然科学の知識がなければ
笑われることが必死な存在論は、20世紀初頭に「論理学」を呼び水とする
幅広い対象を扱える「屁理屈ブンガク主義」の誕生により、旧世代の武器として
捨て去ることができた。
これがなかなか射程が広く、なんら実証データを集めなくても
科学や正義や法律や福祉政策といった一見正しく見えるものを「恣意的な権力」
として攻撃することができた。

当然、攻撃される側には見えない敵や魔女も入っている。というかそれが9割なのであり、
やはりフランスの政治学者など、「問題としている事柄」が一般人にも
ニュースとして目に見える「カタい」分野のたちには失笑されていたようだ。
80-90年代に入るとこれらの模倣者たちが日本でも活動を始める。
これらは旧来左翼の「天皇制、日米安保、被侵略国への対応」といった
あからさまな政府権力レベルへの批判に加え、「同性愛者、女性」といった
普通の人々が同じく普通の人々によって差別されていること、さらに進んで
「大量消費生活」や「マスメディア」への批判、そして現在は
「マクドナルドの椅子が硬いのは陰謀」といった、誰が主犯とはいえない
微視的な権力への批判というようにどんどん「敵」が抽象化していっている。
少し引用してみよう
大衆メディアにおいては、一方にこれでもかといわんばかりの過剰な
セックスと暴力の表現、もう一方に半径五メートルくらいで世界が完結する
凡庸な愛と友情への居直りが見られ、
この二つの傾向が表裏一体となっている。

豊かなポストモダン社会を生きる処世術として、つまらない矛盾に目を
向けたりせずに、親や先生や上司のいうことだけを聞いて、動物的セックスや
消費生活を楽しんでいればいい。
ただし、お金さえあれば。消費社会で満足できないで、それ以外の生き方を探す、
ということになると、もうカルト宗教に走るくらいしか道は残されていないのでは
ないだろうか?そこで、消費でもカルトでもない第三の生き方を考えるのに
ポストモダニズムは役に立つだろう。
(本上まもる『<ポストモダン>とは何だったのか』[p178,184])

二十世紀のあいだ幾度も現れたビッグ・ブラザーの危険性に対しては、
私たちは十分な知識をもっている。しかし、二十一世紀の世界を特徴づける
リトル・ブラザーの危険性に対しては、私たちの社会はあまりに無警戒である。
私たちの多くは、制服警官が住宅地の街角で目を光らせ、私文書が開封され検閲
される社会には常識的な嫌悪感を抱いている。
にもかかわらず、集合住宅の入口から駅の構内、コンビニの店内まであらゆる
場所に監視カメラが設置され、携帯電話やATMの利用履歴が
データベース化される社会にはあまり反発を覚えない。
前回も述べたように、この齟齬は、権力の変容に、私たちの想像力が
追いついていないために生じている。

リトル・ブラザーによる機械型の監視は、情報化を背景としたエンジニアの思惑と
セキュリティ化を背景とした自己防衛的な市民感情に支えられて、
いま急速に増殖し暴走しつつある。
(規律訓練から環境管理へ 著者:東浩紀)
http://www.hajou.org/infoliberalism/3.html


はたして、彼らの批判は妥当なのだろうか?
それは次の項で検討していこう

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