「歴史の終わり」と「終わりなき工場」

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まとめると上から「歴史の終わり」によって「自由にやれないこと/やってはいけないこと」と
「自由にやれること/やっていいこと」を(最大多数が納得する形で)規定され、
下から「自然科学」によって「自由にやれること」の内実が増えていくというサンドイッチ構造。

「歴史の終わり」という哲学理論に対して「自然科学」という分類的カテゴリーでは
座りが悪いので、私は産業化した自然科学のことを「終わりなき工場」と名づけたい。
「終わりなき工場」は「歴史の終わり」の後も永遠に稼動し続け、人々の欲望を
満たす製品・サービスを作り続ける。
もはやフッサールの言う「生の意味」を与える学問体系など必要ないのだ。
無機質な数学が生み出した製品・サービスでも、感性を満足させることができる。
最近のもので具体例を言えばiTunes、家庭用ゲーム機、オンラインゲーム、SNS、
アニメのDVD-BOX、デジタルTV放送、携帯電話。
これらは「生の意味」そのものになるかもしれないし、少なくともその補助はできる。
つまり理性と感性の一致、すなわち哲学が伝統的に問題としてきた真と善の一致は
ある意味で不可能であり、ある意味で可能となった。この矛盾回避の謎は、別項で解き明かしていく。

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