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最近よく聞く「歴史の終わり」とはなにか?

東浩紀氏が取り上げている「歴史の終わり」とは何なのか?
『歴史の終わり』とはフランシス・フクヤマが1992年に出した本のタイトル。
歴史が終わるといっても人類が大破局するとかそういう
「マガジン・ミステリー・ルポタージュ」的な陰謀論の類ではなく、
国家体制において「民主主義」と「資本主義」が、その他あらゆる体制に
勝利し、そこで体制変革の歴史は終わるということ。
単にここだけ読むと1992年という冷戦が終結したすぐあと、
死に体のソ連のマウントポジションに乗った一人のアメリカ人による「後づけ勝利宣言」
にすぎないのだが、フクヤマの「歴史の終わり」という概念は
200年前のヘーゲル哲学を流用しているということが、「諸学の危機」を語る上で
重要なのである。
ヘーゲル用語辞典(未来社)から「歴史の終焉」を引用してみよう。
ヘーゲルの歴史哲学は、民族史や各国史、あるいは芸術の歴史や宗教の歴史といった
個別的な歴史記述ではなく、それらのうちに<<世界精神(Weltgeist)>>の自己発展を
見る「哲学的な世界史」を意味していた。世界精神は、絶対精神が時間のうちで
展開されたものであり、この精神の自己実現の過程が世界史であった。
精神の本質は<<自由(Freiheit)>>であり、世界精神がみずから自由であることを
自覚する過程が世界史の歩みなのである。
それゆえ、ヘーゲルにとっては、歴史の究極目的は自由であり、世界史は、
その目的を目ざす自由の発展史であった。しかし、世界精神がみずから自由であることを
自覚してしまえば、その時点で歴史は終焉してしまう。
このような歴史の終焉論は、ヘーゲル哲学の体系と閉鎖性とキリスト教的終末論の
影響によるものといえよう。[p213]
「世界精神」も「絶対精神」もいわゆる「神」なのだがここでは「政治を動かせる人」
のことであり、例えばヘーゲルは自分の街に入ってきたナポレオンを
「世界精神が馬に乗っている」と評した。
今で言えば「政治を動かせる人」とは参政権を持ったわれわれ一般大衆のことであり、
要するに人々が「自由であることを自覚」したら体制変革の歴史は終わると言っているのだ。

そしてここでの要点は「ヘーゲルは冷戦終結を予言していた!」とか彼をそのような
超能力者として讃えることではなく、当時のドイツ語圏の大学に広く影響力を
持った彼の思想はその時代状況を反映したものであると「臨床例」として見る事である。
すなわち19世紀初頭の時点でさえヨーロッパのインテリたちにとって
望ましい国家体制は「民主主義+資本主義」しかない、と考えられていたのである。

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