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文系諸学の危機(2)

「学問の危機は学問が生に対する意義を喪失したところにある」
とフッサールは述べたが、その歴史的な原因として挙がっているのが近代科学の
開始者の一人、ガリレイである。ガリレイの測量術は、「自然を数学化」した。
端的に言えば、世界を「0や1」という数の理念で表現することが自然の数学化なのであり、
その結果、人間の感覚する色や暖かさや痛み、また感覚に付随する夏の「ギラギラ」
した日差しといった質感、忙しい時ほどはやく時間が流れる気がするといった主観的時間、
および喜びや怒りといった感情など、われわれが日常に直接体験するありとあらゆる「現象」は
あくまで「数学化された真の世界」の二次的で曖昧な「仮象」にすぎないとされた。
全体が均質な「量的世界」と、個々それぞれに不均質な「質的世界」の対立といってもいいだろう。
そして未だに「質的世界」にしがみつく主観的な学問はもはや学問とは呼べないし、
同じく質的な「よい」とか「わるい」とか「こうすべき」といった価値判断をやめて、
学問は量的に表せる事実判断のみをすべきだという現代よく耳にする「常識」が誕生した。

その結果どうなったか?言うまでもなく「学問は生に対する意義を喪失した」のである。
これはニーチェが「ニヒリズム」と呼んだものの次の段階であると言えよう。
近代科学は世界の向こう側から「生」にプレミアムな意味を与えてきた神を殺したが、
今度は日常的な感性までもが、意味を剥奪され無機質な0と1に還元されようとしている。
とまあ、これがニーチェ=フッサール的な問題意識なのだが、自然科学の生活世界への導入、
また自然科学が扱う領域の拡大が、はたして万人にニヒリズムを招くのかという問題はさておき、
現在の社会科学が現実社会に対して影響力を失っている大きな原因を正確に描写してはいる。
つまり、たとえ社会科学を完全に「量的な学」にしようとしたところで、

1.「人間、ひいては社会」を数学的に記述することの技術的な難しさ
2.たとえ記述できても、「価値判断の排除」という原則により、
 それを社会を改善する政策に応用できない。
 すなわち工学性が皆無な単なる「分析」にしかならない。

という問題が露呈する。1.に対しては「社会はともかく生物としての人間は、
化学や生物学である程度記述できてるじゃないか」という反論があるかもしれない。
しかし例えば「アドレナリン」という記号と「その動きを数式で表したもの」、
すなわち「概念」と「数字」は別物である。それについては、別項で述べる。
2.は、例えば「CPUの性能が上がるのは善である」といった根本的な「よさ」を
決めれば、量的な学でもなにがしかを改善することはできるのだが、
共産主義革命はもとより、ナチスがマイノリティの殺害に優生学を利用したために
生物学へ向けられる規制の目が非常に厳しくなっていることなど、
「社会を改変する技術」を社会に適用することに対する大衆的な警戒感がそれを困難にしている。

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