文系諸学の危機(1)

ドイツの哲学者フッサールは70年前に「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」
という書を記した。危機にあるとされる「諸学」とは、これまでヨーロッパが
生み出してきた文字通り近代学問のすべてである。
近代学問の歴史とは哲学からの親離れの歴史なわけであるが、
元来「学問の女王」と位置づけられてきた哲学は、もとより300年前のデカルト以降、
いわゆる認識問題の手詰まりに陥っていた。

認識問題とは、「人間は世界についての正しい知識を得ることが出来るか。
またその方法は何か」を探る分野であり、
近代哲学の最重要問題として勃興してきたのであるが、その内実はというと
「この世界は僕が見ている夢かもしれない」だとか
「1+1=2というのは悪魔が自分を欺いているのかもしれない」だとか
「明日は太陽が昇らないかもしれない」だとか
「熱や色は人間が感じるだけのことであり客観的に存在しないが、
長さや重さは客観的に存在する」だとか「世界の見え方は9個いや12個」といった、
言ってしまえば中学生が授業中にふと疑問に思いそして忘れていくような
ごくごく私秘的な、今で言えば認知心理学のような狭い関心に偏っていた。
くわえて観察や実験データを明示的には使わず、内省と限られた事例によって
「たぶんこうだ」というやり方が伝統なのであって、その歴史的発展は
皮肉にもデカルトやカントが倒そうとした神学論争に極めて近いものになっていた。

その結果、「これはオレが興味を持てる分野ではないな」という関心面、
あるいは「こんな主観的でいい加減な方法論ではダメだ」という方法面において、
ヨーロッパの優秀な学者たちは次々と哲学から離脱することになる。
まず16-17世紀にガリレイ-ケプラー-ニュートンによる力学を基本とした
「近代自然科学」の「のれん分け」が起こり、「自然現象の計算」という
方法論により物体運動の予測という輝かしい成果を残す。
これらは哲学の認識問題の解明を放棄し
「とりあえず世界は自分が見ているように他人にも見えているはずだし、
自然の法則が狂うこともないだろう。おまけに世界は数量化可能だと思う。」
という今で言うところの「自然化された認識論」の立場を別に誰と
合意するとはなしになんとなく採用したのだが、これが哲学業界の
予想以上に、急速にうまくいってしまうのだった。

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