なぜ西洋だけが「普遍的」なのか?再帰性歴史哲学

なぜ西洋の「普遍性」だけが真に普遍化、すなわちグローバル化したのか。
「民主主義」にしても「自由」にしても「人権」にしても「自然科学」にしても、
それらの価値観、学問は西洋を起源としている。
大澤真幸は「文明の内なる衝突」の中でその理由を「自己否定性」にあると論じている。
科学は真理ではなくその時々で最も妥当とされる仮説であるとは
よく聞くところであるが、民主主義への批判もそれと同様なのだ。
民主主義への批判は民主主義によって根拠づけられている、というよりも
民主主義を修正できること自体が民主主義の一部なのである。
「自然科学は、すでに真理に到達しているという充足性によって
定義されているのではなく、未だに真理に到達していないという
否定性によって、つまり真の普遍性との落差によってこそ
特徴づけられていると言うべきであろう」[同上p108]
とはいえ、「自己否定性」という単語ではそれがどうして世界に広がったのか、
繋がりがよくわからない。「それが人類の先験的な感性に合っていたから」
とでも言うのだろうか。大澤はここから「それが資本主義的だったから」
という論旨を展開しているが、私は別の見解を示したい。

それは、西洋由来のシステムが「再帰的」だからだ。
いきなり数式の話になるが、みなさんは「A=A」という式の意味をご存知だろうか?
「ご存知も何も、左のAと右のAが『同じ』という意味しかないだろ」。
言うまでもなく、算数ではこの「=(イコール)」は、それを挟む左辺と右辺の存在者が
全く「等しい」ことを表している。だからどちらかのAを移項して引いたら
ゼロ(=無)になるのだ。しかし「計算機数学」の世界ではかなり話が違ってくる。
プログラミングにおいてこの=は代入演算子と呼ばれ、その意味は「等しい」ではなく、
「右辺に書いた値を左辺に代入する」ということを表すのだ。
だから、「A=A」は一般的にゼロにならないことのほうが多い。
それゆえ「A=A+1(右のA+1を左のAに代入しろ)」という計算式も可能なのだ。
時系列で言うと左のAは「古い自分」で、右のAは「新たな自分」となる。

これは先ほどの大澤の「自己否定性」論を包括していないだろうか。
そしてこの再帰性理論で歴史哲学を粗描すると、例えば原理主義における「経典」、
政治における「絶対君主」、これらはどちらも算数的な「同一性」を
その最重要性質にしていることがわかる。
経典の「解釈」はある程度許されても、経典の価値や歴史的信憑性を批判することは
許されないし、絶対君主への批判もそうである。
すなわち、これらは算数的な「A=A」の同一性を保とうとするシステムなのである。
仮にこの同一性を維持することに賛成する人間の数を「A」だと定義しよう。
すると、これに不満を募らせる人間は、同一性から離れ別の存在者「B」を構成する。
そして「A」より「B」が多くなり、臨界点、閾値を越えると「革命」が起こる。
一方で計算機的な「A=A」のシステムでは、全ての不満はAの再定義によって吸収され、
異質なB(物理学で言うところの、比較不能の『別の次元』)が生成することはない、
あるいは閾値を越えないほど少ない。

単純化したモデルだが、現時点での再帰性歴史哲学の粗描はこうである。

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